まだ食べられる

おじさんのお見舞いに行った。

先日書いた手紙は、出しそびれていた。最近のおじさんの容態がわからないし、やはりあと何回も会えるわけではないので、会えるうちに顔を見ておこうと思い直したのである。午後からは関東の南部も雪になるかもしれないというので、早めに帰れるように、朝のうちに家を出た。

年末に見舞いにいったいとこの話では、おじさんは病室を出るいとこの背中に向かって「おい、正月に火葬場を予約しておいてくれ」と元気な声をかけたという。今回もそのくらい元気だといいが、とかすかな望みを持って病室に入った。

とろとろとまどろんでいたおじさんは思いのほかやつれていて、声をかけるのを躊躇した。看護婦さんからなるべく話し掛けて起こしておいて欲しいといわれていたので、おじさんと呼んでみた。

おじさんはその声に反応して、うっすらと目を開け私たちのほうを見た。嬉しそうに微笑みながら手をあげ、あそこの戸棚にお菓子が入っているから食べるように促す。私には孫もいてれっきとした大人なのだが、おじさんから見たらいつまでたっても小学生の景子ちゃんなのだろう。遠慮しているとおじさんはいっそう気を使う。それはこの間のお見舞いでわかっていた。戸棚からおいしそうなお菓子をみつけ出し、おじさんの目の前であけて頂いた。

私たちはおじさんがまだすこしは物を食べられると聞いていたので、飛び切り上等なイチゴを買っていった。「おじさんがまだ物を食べられると聞いたから買ってきてみたの、食べる?」といってからしまったと思った。まだ食べられるとは何という言い方をしてしまったんだろう。幸いおじさんは自分の病気の状態をしっかりわかっていて、心の準備もできているが、病人には絶対言ってはならない言葉である。病名を知らないで、直るかもしれないと思っている人にはなおさらである。心の動揺を見られたくないと、おじさんに背を向けてイチゴを二つほど洗った。小さく切って差し出すと、嬉しそうにひとつつまんで食べてくれた。すぐに咳き込み、それ以上は食べられなかった。

おじさんは私たちにいろいろ言いたいことがあるのだろう。紙とペンがほしいという。書いたものを渡されるが、文字になっているのは最初の2文字程度で、後はぐしゃぐしゃと書きなぐって判読できない。言葉も明瞭ではなく、聞き取りにくい。何度も聞き返すのも悪いので、半分ほどしか意思が通じない。ここに移ってからまもなく老人性痴呆の症状が出てきたらしい。付き添いの妹さんの話では、痛みが和らいだ分緊張感が解けたのだろうということだった。本人は痛みが和らぎゆったりとしているが、周りのものにとっては急速にボケてしまった病人が哀れに思えるようである。